梅毒の歴史について
性感染症といえば、今はエイズやクラミジアがよく知られますが
一昔前までは、梅毒がよく取り立たされていました。
とはいえ、梅毒は決して過去の性病ではなく、
今も、梅毒にかかってしまう人は、どんどん増えており、
ここ4年間で、患者数は44.8%も増加しているというデータもあります。
ここでは、梅毒の歴史についてウィキペディアより引用したものを
お届けします。
次回は、梅毒の症状や感染経路、治療について引用して参ります。
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梅毒
梅毒(ばいどく、Syphilis。黴毒、瘡毒(そうどく)とも)は、スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマ (Treponema pallidum) によって発生する感染症、性病。 試験管内の培養は不可能のため、病原性の機構はほとんど解明されていない。1998年には全ゲノムのDNA 配列が決定、公開されている。また、理由は不明だが、ウサギの睾丸内では培養することができる。
歴史
梅毒が歴史上に突発的に現われたのは15世紀末であり、そのため本病の由来については諸説ある。
* 梅毒は15世紀以前から旧世界(ヨーロッパ・アジア・アフリカなど)に存在していたとする説。古い法令に梅毒に関するものがあるなどとするが、本病による病変を示す人骨等の具体的資料は無く、支持者はほとんどいない。
* 梅毒は、症状が非常に軽い状態で旧世界に古くからあったとする説。現在でも熱帯地方を中心に、皮膚に白斑が生じる程度の「ピンタ」、潰瘍を生じる「ヨーズ」など軽症のものがあるが、これらは梅毒トレポネーマにより起こることから、旧石器時代(1万2000年以前)にピンタかヨーズが発生し、人類の間に広がり、15世紀末にヨーロッパでトレポネーマに変異が起きて梅毒が生じたとする。
* クリストファー・コロンブスの率いた探検隊員がアメリカ上陸時に原住民女性と交わって感染し、ヨーロッパに持ち帰り、以後世界に蔓延したとする説。コロンブスの帰国から梅毒の初発までの期間が短いという難点があるが、アメリカでも古い原住民の骨に梅毒の症状がある例が発見されており、また例えば日本でも、コロンブス以前の人骨には梅毒による病変が全く見つかっていないなど証拠は多く、最も有力な説とされている。
* 旧ソ連の学者により唱えられた説で、梅毒はアメリカ起源ではあるが、ベーリング海峡を渡ってシベリア経由でヨーロッパに入ったとする。原因は、ベーリング海峡を通して両地域の住民の交流があったためである。
* 日本では1512年に記録上に初めて登場している。交通の未発達な時代にもかかわらず、コロンブスによるヨーロッパへの伝播からわずか20年でほぼ地球を一周したことになる。特に沖縄においては、激烈な流行であった。花柳界においては、多く罹患し、古くからいる人”(ふるっちゅ)”は梅毒に罹っている人、古血(ふるじ)は梅毒を意味する言葉となった。著名人では、加藤清正、結城秀康、前田利長、浅野幸長などが梅毒で死亡したとみられている。本病が性感染症であることは古くから経験的に知られ、徳川家康は遊女に接することを自ら戒めていた。
* 抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリンなどの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快する。梅毒トレポネーマは抗生物質への耐性は獲得していない。罹患患者も減少しているが、根絶された訳ではない。
* 昔は鼻部の軟骨炎のために鞍鼻(あんび)や鼻の欠損になることがあり、川柳などに詠われていた。江戸時代の夜鷹などには『鼻欠け』が多かったので、川柳にも『鷹の名にお花お千代はきつい事』があった。勿論“お花お千代”とは“お鼻落ちよ”に掛けた。
* 同様の症状を呈するハンセン病と同一視されていた時期がある。ハンセン病を患ったダミアン神父は、それが問題視され、非難された。
* 日本語の「梅毒」という呼称については、この病気によって生じる瘡が楊梅(ヤマモモ)の果実に似ていたため「楊梅瘡」と呼ばれていたが、これが時代と共に変化したとする説がある。
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(以上、ウィキペディアより引用致しました)